ぼくのプロフィールと、プチ個人史をご紹介していきます。
もくじ
ヒロの簡単なプロフィールと今までのプチ個人史
大学2年生のとき、英語力ゼロなのに見切り発車で1年間マレーシアへ留学。
留学して1ヶ月も経たないうちに、将来はマレーシアに移住して新卒で現地採用として働くことを決意。
大学を卒業した後、新卒でマレーシア・ペナン島にある外資系の会社に就職し、カスタマーサポートとして勤務。
バックパックで世界中を一人旅するのが好きで、学生時代には東南アジアを一周した経験があります。
好きな国はスリランカにある要塞都市ゴールと、ベトナムにあるランタンが灯る港町ホイアンです。
他の家庭が羨ましくてしょうがなかった幼少時代
沖縄県の国際通り近くの病院で、ペナンブログの管理人ヒロは生まれました。
幼い頃からじっとしていることができなくて、何かしていないと気がすまない性格だったらしいです。
2歳上のにぃにぃをいつもライバル視して、負けるのが大嫌いでした。
そんな調子ですくすくと育ったぼくでしたが、幼いながら家が裕福な家庭ではないことに気づき始めました。
親父は個人事業主として美容室を経営していましたが、店舗の維持費にお金がかかり、家に入れてくれるお金は多くなく。
クーラーの温度を1度下げるだけでおかんに怒られ「お金持ちの家に生まれてたらな...」と思いながら生きてきました。
イジメを経験して人間関係で苦しかった中学時代
6年間続けてきたレスリングをやめ、にぃにぃの影響でバドミントンを始めました。
部活に夢中になり充実した中学1年生でしたが、2年生になると友だちのほとんどがグレてヤンキーに。
にぃにぃから借りたiPodが友だちに盗まれ、これをきっかけにイジメはどんどんエスカレートしていきました。
「勉強してあいつらを見返してやろう」という反骨心が芽生え、必死こいて勉強した結果、ギリギリのところで那覇高校に合格。
那覇高は県内の高校の中ではレベルが高い方なので、「ヒロが受かるはずがない」と誰も信じて疑いませんでした。
合格発表の日、ぼくより先におかんがぼくの受験番号を見つけて、号泣したのをよく覚えています。
沖縄から出たくて必死に受験勉強をした高校時代
高校生になると、中学生のときよりも更にバドミントンに夢中になりました。
先輩にも恵まれ、プライベートでも部活のメンバーで遊ぶほど充実した日々を送っていましたが、高校2年生になるとまたイジメが...。
同じクラスの男子ほぼ全員から除け者にされ、一緒に弁当を食べてくれる人なんて誰一人いませんでした。
おかんにお願いしてよく大好物のタコライスを作ってもらっていたのですが、教室のベランダの隅っこで1人で食べていました。
「地元の沖縄を離れて、誰もぼくを知らない関東へ行こう。。。。。。」
そう決意し、塾の講師に泣かされながら必死こいて毎日15時間は勉強し、念願の神奈川大学に合格したのです。
日本人ともうまく馴染めず孤独になった大学時代
「第二の人生は絶対に失敗しないぞ!」と腹をくくり、夢と希望を持って一人で神奈川県の平塚市に住み始めました。
関東には修学旅行で沖縄に行ったことがある人がたくさん居て、「沖縄出身」というだけですぐに友だちができました。
何もかも順調で、人生で1番楽しい時間を過ごしていましたが、あることがきっかけで急に仲良しの友だちから避けられるようになったのです。
そんな中、数少ない親友がマレーシア留学を目指していることを知り、彼が留学したら大学にぼくの居場所がないことに気がつきました。
たった50万円で1年間マレーシアへ留学できると聞いて、「これはぼくのための留学だ!」と勝手に思い込み、大学から逃げるように必死にTOEFLの勉強を開始。
ギリギリのところで合格し、晴れてマレーシアへ留学することになりました。これがぼくの人生を大きく変える運命の出来事になるのです。
人生を180度がらっと変えたマレーシア留学時代
初めてマレーシアのペナン空港に着いたとき、「なんか沖縄みたいで心地いいな!」と感じたのをよく覚えています。
マレーシアで出会ったすべての人たちは、英語も話せないぼくを温かく迎えてくれて、彼らの優しさに何度も救われました。
マレーシア人はぼくの拙い英語を最後まで聞いてくれ、彼らのおかげで気がつけば英語が話せるようになっていたんです。
彼らはいつも居場所を作ってくれて、不器用なこんなぼくをありのままに受け入れてくれました。
いつしか「マレーシアに恩返しがしたい!」と思うようになり、19歳でマレーシア移住を決意。
留学中は多くの時間をローカルと過ごし、ムスリムと断食したり9日間ベジタリアンになったりなど、いろんな異文化体験をしました。
>> 【体験談】マレーシア留学で経験したこと10選【現地に染まりました】
中華系マレーシア人ユナとの出会い
マレーシアに来て間もない頃、理学部と経営学部の合同の英語クラスがありました。
クラスが終わったあと、理学部のローカルの友だちに「私のルームメイトを紹介するね!」と言われて出会ったのがユナでした。
ユナは英語をスラスラ話すので、初めて会ったときは聞き取るのに必死で、何を話したのかあまり覚えていません。
ふたりは少しずつ仲良くなっていき、出会って3ヶ月後、ぼくらはお付き合いすることになりました。
「ヒロは9ヶ月後に日本に帰ってしまう...。」
そんな現実をユナは受け入れてくれて、できるだけ長い時間をぼくと過ごしてくれました。ユナには本当に感謝です。
国際カップルの5,134キロの遠距離恋愛スタート
1年間のマレーシア留学がおわり、ペナン空港でユナやクラスメイトに見送られ日本に帰ってきました。
ユナとは毎日メッセンジャーや電話でやり取りし、お互い寂しさを紛らわすので必死でした。
生活費を極限まで抑えて貯めたお金を握りしめ、4ヶ月に1回のペースでユナに会いにマレーシアへ。
金曜の19時に大学の授業が終わったあと、そのまま21時の深夜便に乗り、土曜の朝からデートする日々を送っていました。
そんな日々も長くは続かず、コロナの影響でマレーシアがロックダウン。1年と9ヶ月ユナに会うことはできませんでした。
ふたりが一緒にいた時間を、一緒にいられなかった時間が追い越したのはこの頃です。
コロナ禍に新卒でマレーシア移住&ペナンに就職
同期がみんな内定をもらい会社でバリバリ働き始めた頃、ぼくはまだ1つも内定をもらっていませんでした。
コロナ禍に日本人を採用してくれる企業は一社もなく、応募した4社からはすべて不採用。
6ヶ月間の就活の末、ようやく一社から内定をいただけることに。
19歳のときに決めた「新卒でマレーシアに移住する」という夢が、3年以上かけてようやく叶った瞬間でした。
現在はペナン島にあるTeleperformance Malaysiaという会社で、世界各国の外国人とビジネス英語を使って働いています。
>> 新卒でマレーシアに移住したぼくがペナン就職する方法を解説します
今やってること&これから挑戦してみたいこと
ユナとは19歳のときに出会って約5年お付き合いしましたが、お互いに話し合って別れることになりました。
マレーシアにいる理由は半分なくなりましたが、今でもペナン島で「マレーシア留学時代の延長線」のような生活をしています。
オフィスでビジネス英語を使って働いたり、仲の良いローカルや同期とご飯に行ったりなど、充実した毎日を送っています。
「日本で上手くいかないことがあったら、とりあえずマレーシアへリフレッシュしにおいで!」
いつか過去のぼくのような人にそう言えるよう、これからもマレーシアに関する情報をお伝えしていけたらなと思います。
ペナンブログの人気記事は、こちらの5本です。
このブログの説明・管理人についてはこちらからどうぞ。